挿し木
八時十二分、電車を降りた。
階段を降りるとき、右手で手すりをつかんだ。鉄はまだ夜の冷たさを残していて、それが指の腹から手首のほうへ、ゆっくり上がってきた。
三段目くらいを降りたとき、甘い匂いがした。
今年、はじめての金木犀。
立ち止まりはしなかった。後ろから来る人の靴音が、背中を押していたから。
ただ、吸う息の量だけが、少し増えた。熟れた果物とも、粉砂糖とも違う、あの重たい甘さが、鼻の奥に溜まる。
木は、どこにも見えなかった。隣のガラスから見える外にも、階段の下にも、それらしい橙色はない。
匂いだけが先に来る。毎年、まあ、だいたいそうである。
*
金木犀に、私は、いつも気づくのが遅い。
去年までは、隣を歩く人が先だった。
駅から家までの坂の途中で必ず足を止めて、首を少しだけ傾けた。どこやろ、と言いながら、探しもしない。
その横顔を見て、ああ秋なのだと知っていた。
今年は、誰も言ってくれなかった。
だから、自分で気づいた。
それだけのことだった。
*
日本にある金木犀は、ほとんどが雄の木らしい。
中国から渡ってきたとき、雄株ばかりだったという。
だから実をつけない。種で増えることができず、人の手で枝を切られ、土に挿され、根を出して、また植えられてきた。
どの街の金木犀も、もとをたどれば、わずかな木に行き着くのかもしれない。
そういう話を、いつか何かで読んだ。
去年の坂道の金木犀と、今朝の階段の金木犀は、たぶん同じ匂いをしている。
私の鼻が、区別できないだけかもしれない。
区別したくないだけかもしれない。
*
私は、思い出を挿し木のように扱う人間である。
都合のいいところだけ枝を切って、別の場所に挿して、根づいたふりをさせる。
都合の悪い枝まで、地面から生えてきたような顔をさせて、また挿し直している。
いやらしいと思う。
けど、別に、どうしようもなかった。
実をつけないものを、私は、ずっと増やしている。
知っていて、やめないのだ。
(了)
初出 note 二〇二六年十月七日