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映画の四十秒 短篇 水 1-21

映画の四十秒

私は、食わず嫌いで、聞かず嫌いで、見ず嫌いである。

ジャズは、学生のころ入った喫茶店で、一曲だけ聞いた。眠たかった。

ミュージカルは、テレビで誰かが急に歌いだす場面を見た。むずがゆかった。

パクチーは、十年前の飲み会で、生春巻きからはみ出していた一枚をかじった。石鹸の味がした。

『夜明けのホーム』は、スマホに流れてきた切り抜きで、四十秒だけ観た。

駅のホームで、女の人が、走りだした電車に向かって男の名前を叫んでいた。泣きながら。コメント欄には「号泣」「三回観て三回泣いた」が並んでいた。

それで十分だった。泣かせにくる恋愛映画。

一回抱いた感想は、まあ、並大抵のことでは変わらない。三十四年、それでやってきた。別に、困ったことはない。

*

その『夜明けのホーム』を観たいと、彼が言った。

彼が見たいというものに、それは泣かせにくる恋愛映画だから嫌だ、とは言えなかった。へえ、恋愛ものが好きなのか、と新しい発見だった。

土曜のレイトショーは、半分くらいしか埋まっていなかった。ポップコーンの塩の匂いがする。私は、Mサイズのコーラを抱えて、いちばん泣かずにすみそうな心構えで座った。

始まって十分で、あれ、と思った。

舞台は海辺の町の、古い銭湯。番台に座っているのは、例の女の人。叫ばれていた男は、恋人ではなく、弟だった。

弟は、東京に出て料理人になりたいと言う。

姉は、銭湯を継げと言う。

父親が死んでから、二人きりで回してきた店だ。顔を合わせるたびに、姉弟は、くだらない口喧嘩をする。そのたびに湯船の栓が抜けなくなったり、常連のおじいさんが入れ歯を落としたりして、喧嘩はうやむやになる。

客席から、何度も笑い声が上がった。私も、二回くらい笑った。

そのうち、姉は、黙って弟の荷造りを手伝うようになる。あれだけ反対していたくせに、鞄の隙間に、銭湯の名前入りのタオルを三枚、余分に押しこんでやる。

あのホームの場面は、終わり近くに来た。

出発の朝、姉が、走りだした電車に向かって、弟の名前を叫ぶ。泣きながら。四十秒、私が知っているとおりだった。

そのあと、姉は、片手を高く上げた。

弟の財布だった。

電車は止まらない。姉は、ホームで泣いたまま、お腹を抱えて笑いだす。客席からも笑い声が聞こえてきた。

昼過ぎ、次の上りに乗って、弟がばつの悪い顔で帰ってくる。財布を受け取って、またホームに立つ。

二度目の見送りで、姉は、泣かなかった。手を振って、早く行け、と笑っていた。

切り抜きは、財布のところを、きれいに落としていたらしかった。

号泣はしなかった。

二度目の見送りで、少しだけ鼻の奥がつんとしたけど、それはたぶんコーラの炭酸のせいである。

*

映画館を出ると、夜風が冷たかった。

どうだった、と圭くんが訊いた。

財布の場面、と私は言った。それしか言えなかった。圭くんは、あそこいいよね、と嬉しそうにした。

ジャズも、ミュージカルも、パクチーも、私は、まだ嫌いである。一度でわかったことにしておくほうが、楽だから。

ただ、あの四十秒は、どうやら全部ではなかったらしい。

喫茶店のあの一曲も、と考えかけて、やめた。

コーラの空き容器を、ゴミ箱に放る。

うん、悪くなかったと思う。

(了)

初出 note 二〇二六年十月三十一日