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どんぐり 短篇 水 1-12

どんぐり

私が枝から落ちたのは、ひどく風の強い午後だった。

落ちること自体は、別に怖くなかった。クヌギの実に生まれた以上、いつかは落ちる。早いか遅いかの違いしかない。

ただ、もう少し静かな日に落ちたかったとは思う。風にあおられて、隣の実と額をぶつけ、そのまま斜面を三回転ほどして、ようやく落ち葉の間に止まった。帽子は途中でどこかへ行ってしまった。

止まってみると、地面はあたたかかった。落ち葉の下から湿った土の匂いが上がってきて、殻の継ぎ目にじわりと沁みる。ここなら根を下ろせる、と私は思った。冬を越して、春になったら、殻を割って白い根を伸ばす。誰に教わったわけでもないけれど、それが私の予定である。

予定には、ひとつだけ問題があった。

私の中には、もうひとりいる。

いつからいるのかは、はっきりしない。たぶん、まだ枝についていた夏の終わりだと思う。細い口吻を持った虫が私の殻に穴をあけ、卵をひとつ置いていった。穴はすぐにふさがって、外からはもう見えない。けど、内側では、それがゆっくりと私を食べている。痛くはない。ただ、少しずつ、私の中に私でない場所が増えていく。

そういうわけで、私は見た目ほど立派な実ではない。

それなのに、拾われた。

拾ったのは、黄色い長靴をはいた男の子だった。母親らしい女の人がベンチで電話をしていて、男の子はそのあいだ、私の落ちた斜面をうろうろしていた。私の隣には、もっと丸くて大きな実が転がっていた。中に誰もいない、正真正銘の実である。男の子はそれを一度手に取り、少し眺めてから、元に戻した。そして、私を拾った。

「これ、いちばんつやつや」

選ばれた理由は、それだけだったらしい。

男の子の手のひらは、地面より熱かった。汗で湿っていて、少しべたついた。私はその手の中で、ずっと、申し訳なかった。中に誰かいますよ、と言えたら言いたかった。言えないので、せめてつやつやしていようと思った。思ったところで、つやは増えないのだけれど。

男の子の家は、公園から歩いて十分ほどのところにあった。私はほかの実たちと一緒に、クッキーの空き缶に入れられ、勉強机の引き出しの奥にしまわれた。暗くて、乾いていて、土の匂いはどこにもしなかった。根を下ろす場所ではない。私の予定は、そこでいったん白紙になった。

缶の中で、私は何日も、内側の音を聞いていた。

かり、かり、と小さな音がする。私を食べる音である。不思議と、腹は立たなかった。向こうも向こうで、生まれた場所がたまたま私だっただけだ。選んだわけではない。私が男の子に選ばれたのと、たぶん大差ない。

二週間ほどして、内側の音が止んだ。

かわりに、殻の一点が、内側から押される感触があった。ぷつ、と穴があいて、白くて小さな幼虫が、身をよじりながら外へ出ていった。空っぽになったぶん、私は少し軽くなった。

その日の夕方、缶を開けた男の子が泣いた。

泣き声を聞いて、母親が来た。缶をのぞき込み、ああ、と短く言い、缶ごと庭へ持って出た。私たちは、プランターの脇の、雑草の生えた地面にざらざらとあけられた。穴のあいた実も、あいていない実も、区別なく。

私は、久しぶりに土の上にいた。

内側はずいぶん食べられてしまった。根を出すための、いちばん大事な芯が残っているのかどうか、自分でもわからない。わからないけど、殻の継ぎ目に、また湿った土の匂いが沁みてくる。それだけで、私はもう一度、予定を書き直す気になった。

冬を越す。春になったら、殻を割ってみる。割れなかったら、それはそれで、土になる。

どちらに転んでも、ここは、あの缶の中よりはずっといいはずなのに、私はないはずの心にまで、ぽっかり穴が空いたような気持ちになった。

(了)

初出 note 二〇二六年十月十六日