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口角 短篇 水 1-7

口角

洗面台の鏡の前で、口の端を、くいと持ち上げる。頬の肉が耳の下へ引っ張られて、目尻に細い皺が寄る。歯は見せない。見せると、途端に嘘くさくなるからだ。三つ数えて、力を抜く。それで終わり。毎朝のことである。

始めたのは、三十二の冬だった。

会社帰りの電車で、ドアのガラスに映った女の顔を、私は、しばらく他人だと思っていた。口の両端がだらりと垂れて、顎のあたりに不機嫌な影が澱んでいた。疲れているんだろうな、と思った。かわいそうに、とも思った。それが自分だと気づいたのは、電車が地下に潜って、窓が真っ黒な鏡になってからだった。

別に、傷ついたわけではない。

ただ、知らない顔だった。

翌朝から、鏡の前で笑うようになった。どこかで読んだ記事に、口角は意識しないと年に何ミリか下がる、と書いてあった。何ミリだったかは覚えていない。数字なんて、どうだってよかった。

三十四になった今も、続いている。

続けている、と言えるほどの意志はない。歯を磨いて、顔を洗って、化粧水を手のひらで押し込んで、そのあと手が勝手に止まって、口の端が上がる。習慣というより、癖に近い。

笑ったところで、何かいいことがあった試しはない。

事務の仕事は相変わらず、誰にも感謝されず、誰にも疎まれず、ただ回っている。一度だけ、同期の真柴さんに「最近なんか機嫌いいよね」と言われたことがあって、私は、曖昧に笑ってやり過ごした。機嫌がいいわけではなかった。機嫌が悪く見えないように、朝、顔を拵えているだけだ。そういう女である。

自分の顔の下がり具合を、他人の目より先に気に病む女である。好かれたいのではない。嫌われる理由を、ひとつでも減らしておきたいだけだ。いじましい、と自分でも思う。けど、思ったところで、やめる理由にはならなかった。

昨夜は、よく眠れなかった。

理由はない。理由がないのが、いちばん質が悪い。天井の木目を数えて、スマホを伏せて、また起こして、カーテンの隙間が白んでいくのを、布団の中から眺めていた。

日曜の朝。誰に会う予定もない。それでも私は、鏡の前に立っている。

口の端を持ち上げようとして、持ち上がらなかった。

頬が、自分のものではないみたいに重かった。力を入れると、唇の横がひくりと震えて、すぐに元の位置へ落ちる。鏡の中に、あの夜の電車の女がいた。ガラスの向こうで、疲れて、かわいそうで、他人の顔をしていた女。

やめてしまえばいい、と思った。誰も見ていないのだ。

なのに私は、人差し指を口の端に当てていた。

指の腹に、洗いたての頬の冷たさが伝わる。そのまま、ゆっくりと押し上げる。不格好。笑顔というより、誰かに無理やり描き足された線みたい。

笑いたかったわけではなかった。

ただ、あの女を、放っておけなかっただけだった。

誰のためでもない、と言えば、嘘になる。自分のためだ、と言い切るのも、たぶん嘘だ。

指を離す。

口の端は、落ちずに、そこに留まっている。鏡の中の女が、少しだけ遅れて、こちらに笑いかける。

(了)

初出 note 二〇二六年十月十一日