芋煮の分量
十月になると、実家から里芋が届く。
段ボールのガムテープを剥がすと、湿った土の匂いが部屋に広がった。新聞紙の中で、里芋は、ひとり暮らしの台所にはどう考えても似合わない数、ごろごろと身を寄せ合っている。
手紙は入っていない。入っていたことは、一度もない。
母は、量を減らすということを知らない人である。
東京に出て十年になるけれど、届く里芋の量は、家族四人で河原に出ていたころとほとんど変わらない。
山形では、秋になると芋煮をする。
九月の終わりから十月にかけて、河原という河原に鍋が並び、薪の煙があがる。
牛肉と里芋とこんにゃくとネギを、醤油と砂糖で甘じょっぱく煮る。それを町内会や職場や同級生の集まりで、大鍋ごと囲む。
馬見ヶ崎川の河原では、直径六メートルの鍋を重機でかき混ぜる祭りまである。
テレビでそれを見るたび、東京の人は笑う。私も、一緒に笑う。
正直に言えば、芋煮会が好きではなかった。
煙で目が痛いのも、ござ越しに石が尻に当たるのも、酔った大人たちの大きな声も、別に好きではなかった。
父は毎年、町内会の鍋奉行で、朝から河原に出て場所を取り、薪を組み、誰よりも先に酔っぱらった。母はその横で、黙って里芋の皮を剥いていた。
十キロ、二十キロと。
私はその手伝いをさせられて、手が痒くなって泣いた年もあった。里芋のぬめりは、素手で触ると、皮膚の薄いところから順番にちりちりと痒くなる。手首の内側、指の股、爪の際。
ここを出たい、と最初に思ったのは、たぶん、あの河原だった。
それなのに、私は、毎年、芋煮を作る。
流しに里芋を山にして、たわしでこする。
泥が落ちると、毛羽立った白茶けた肌が出てくる。上下を落とし、六方に皮を剥く。ぬめりが指に絡み、やがて手首の内側がちりちりと痒くなる。
十年経っても、あそこから痒くなる。
手袋をすればいいのはわかっている。
けど、手袋越しでは、包丁の刃がぬめりの上を滑る感じが、どうにも掴めない。
鍋は、ひとり暮らしには大きすぎる寸胴を使う。
上京した最初の秋に、この芋煮のためだけに買ったものである。ほかのことに使った覚えは、ほとんどない。
水から里芋を煮て、こんにゃくを手でちぎって入れる。
包丁で切るより、ちぎったほうが味が染みる。母が、そう言っていた。
砂糖と醤油と酒。アクをすくいながら、竹串が里芋にすっと通るまで待つ。最後に牛肉をほぐし入れ、色が変わったら、斜めに切ったネギを放りこむ。
肉は煮すぎると固くなる。これは父が言っていた。
湯気が、台所の小さな窓を曇らせた。
醤油と牛脂の甘い匂いが部屋じゅうに満ちて、その瞬間だけ、ここは東京ではなくなる。
煙の匂いはしない。石も当たらない。大声で笑う大人もいない。
いいところだけが、鍋の中に残っている。
ああ、ずるい。
味見をしていると、スマートフォンが鳴った。母からだった。
〈芋、届いた?〉
〈届いた。今煮てる〉
〈誰と食べるの〉
毎年、同じことを訊かれる。毎年、私は同じように答える。
〈会社の人たちと〉
会社の人と芋煮を食べたことは、一度もない。東京に来てから、芋煮を誰かと食べたことが、そもそも一度もない。
〈そう。よかった〉
母は、それ以上何も訊かない。嘘に気づいているのかどうか、私にはわからない。わからないまま、十年が経った。
ひとり分だけ作ればいい、と毎年思う。
里芋を三つか四つ、牛肉を百グラム、小鍋でちょっと煮れば済む話なのに。届いた里芋を前にすると、私の手は勝手に、全部をたわしでこすり始めてしまう。
減らさなかったのではない。
減らせなかっただけだった。
母が里芋の量を減らせないのと、たぶん、同じ理由で。
芋煮は、三日目がいちばん美味しい。
一日目は、里芋の角がまだ立っていて、汁は澄んでいる。
二日目には、牛肉の脂が表面で白く固まり、温めなおすと里芋の縁が少しだけ溶けている。
三日目になると、崩れた里芋が汁にとろみをつけ、ネギはくたくたに透けている。
河原の芋煮に、三日目はない。
あの大鍋は、その日のうちに空になる。誰かがおかわりをして、誰かが鍋の底をさらって、最後に父が、残った汁にカレールーを溶かしてうどんを煮る。
三日目の味を知っているのは、たぶん、家族の中で私だけである。
ひとりで食べる芋煮しか知らない味がある。
それを、どこかで誇らしく思っている自分がいる。
四日目の夜、私は帰りにスーパーで、うどんを一玉と、カレールーをひとかけら買う。
鍋の底に残った汁は、もうほとんど里芋の形をしていない。
火にかけて、ルーを落とす。醤油の甘い匂いにカレーの匂いがかぶさって、急に、あの河原の匂いになる。煙はない。別に、それでいい。
うどんをすすると、汁が跳ねて、手首の内側に落ちる。里芋で痒くなったのと、同じところだった。
写真を一枚撮って、母に送る。
〈今年は、締めまでやった〉
寸胴の底が、ようやく見えてきた。
(了)
初出 note 二〇二六年十月九日