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最後のいっこ 短篇 水 1-16

最後のいっこ

駅の改札を出て右へ曲がると、商店街の入り口に小さなパン屋がある。夜の八時に閉まる。私がそこに着くのはたいてい七時五十分を少し過ぎたころで、トレーの上にはもう、ひとつかふたつしか残っていない。

私は、残っているものを買う。

それが何であっても買う。カレーパンでも、ソーセージを巻いたやつでも、玉ねぎの甘ったるいツナマヨでも。棚の前で迷う時間が、そもそも私には残されていない。最初は、そういうことにしていた。

仕事は七時に終わる。駅まで十五分、電車で二十分。計算すれば分かる。もっと早く着く方法は、いくらでもあった。

けど、別に、早く着きたいとは思わなかった。

棚がいっぱいの時間に行ったことが、一度だけある。休日の昼だった。カレーパン、焼きそばパン、コロッケパン、ベーコンエピ、チーズの焦げたグラタンパン、明太フランス。油と小麦の匂いが店の奥から押し寄せてきて、トングを持った私の手は、どこにも伸びなかった。結局、何も買わずに店を出た。

*

私は、選ぶことが下手な人間である。昼の定食も、休日の行き先も、何年か前の、別れるか続けるかも。

選べないから、選ばなくていい場所に身を置く。

最後の一個しかない棚の前に、閉店十分前に立つ。そうすれば、パンのほうが私を決めてくれる。おいしくなくても私のせいではない。売れ残ったパンのせい、ということにできる。

我ながら、ずいぶん小賢しい。

その日、トレーに残っていたのはちくわパンだった。ちくわの穴にツナマヨを詰めて、それごとパン生地で巻いて焼いたもの。

私はこれが苦手である。

ちくわとパンのあいだには、どうしても埋まらない溝がある。噛むとちくわだけが歯のあいだでぐにゃりと逃げて、パンだけが口に残る。

それでも私は、トングを取った。

「それ、苦手でしょう」

レジの奥から、店の人が言った。六十くらいの、白い三角巾の女の人。毎晩、私のパンを紙袋に入れてくれる人だ。名前は知らない。

「え」

「前に買っていったとき、顔に出てたから」

出ていたらしい。私は何も言えず、トングでちくわパンを挟んだまま立っていた。

女の人はレジの下から、もうひとつ紙袋を出した。口が二つに折られていて、中身は見えない。

「これね、取り置き。閉める前に来る人のぶん」

「取り置き、ですか」

「たまにはね。最後の一個じゃないのも、いいかと思って」

袋は、まだ少し温かかった。持ち上げると、底のほうに重さが偏る。両方ください、と私は言った。断る言葉を選べなかったから。

それと、袋の温かさがうれしかったから。

帰り道、ガードレールにもたれて袋を開けた。カレーパンだった。揚げてから時間が経っているのに、衣はまだ少しだけ、ざらりとしていた。かじると、辛さより先に甘さが来た。人参の甘さだと思う。思う、ではなくて、人参だった。小さく刻まれた橙色が、断面に覗いていた。

私が選んだパンではないけれど、売れ残りでもない。

誰かが私のために選んでおいてくれたパンを、私は、ずいぶん長いこと食べていなかった気がした。

ちくわパンは、袋の底でゆっくり冷えていく。明日の朝、たぶん食べる。

苦手なのは変わらないはずなのに、いつもよりたのしみだ。

(了)

初出 note 二〇二六年十月二十二日