ご自愛ってなんやねん
最近、ご自愛という言葉をやたらと見かける。
頑張った自分にご自愛スイーツ
週末はご自愛デー
ご自愛のためのバスソルト
コンビニの棚にも、SNSの広告にも、ご自愛はいつのまにか当たり前の顔をして並んでいる。
なんやねん、ご自愛って。
もとは手紙の結びの言葉である。くれぐれもご自愛ください、と、誰かが誰かの身体を案じて書き添えるもの。
頭に「ご」がついているのは、相手を敬うためのはずである。
それを自分から自分に向けて使うのは、鏡の前で自分に「お疲れさまでございます」と頭を下げるような、妙なねじれがある。
言ってくれる人がいないから、自分で言うしかなくなったのかもしれない。
*
とはいえ、私も、そのご自愛とやらをする。
する、どころか、わりと得意である。
嫌なことがあった日は、湯船に入浴剤を入れる。
好きなラジオをかける。少し高いハンドクリームを、指の股まで丁寧に塗り込む。帰り道のコンビニで、いつもは素通りする瓶入りのプリンを買う。そうやって手順をひとつずつ踏めば、たいていの夜はどうにかなる。
そう、どうにかなってしまうのだ。
昼間あれほど胸の奥でざらついていたものが、四百円のプリンと柚子の湯で、するりとなだらかになってしまう。
上司のひと言も、うまく運ばなかった仕事も、誰かの無神経な冗談も、ひと晩眠れば輪郭がぼやけている。
助かる、とは思う。思うのと同じくらい、拍子抜けもしている。
私の憂鬱は、その程度のものだったのか。こんなに安く片がつくものに、私は昼間、あんなにも振り回されていたのか。
もっと、どうにもならないものであってほしかった。
入浴剤ごときでは溶けない、プリンひとつでは埋まらない、誰かがそばに来て背中をさすってくれない限りどうにもならない、そういう重さであってほしかった。
そうであれば、私は堂々と誰かに寄りかかれたのかもしれない。助けて、と言えたのかもしれない。
けど、私の重さはいつも、自分ひとりで抱えきれる大きさにおさまってしまう。おさまってしまうから、誰の手も借りないまま、また朝が来る。
もちろん、これがひどく贅沢で、矛盾した願いであることは分かっている。
本当にどうにもならない夜を過ごしている人からすれば、ふざけるなという話だろう。私だって、いざそうなったら、泣きながら今夜のプリンを懐かしむに決まっている。
どうにかなる、というのは、本来ありがたいことでしかない。
ありがたいのに、もどかしい。
自分の機嫌を自分でとれるのは、自分を守る技術である。同時に、誰かに機嫌をとってもらう機会を、自分の手で先回りして潰していく技術でもある。
私は手際がいいらしい。どうにもならなくなる前に、さっさと摘み取ってしまうのだ。そうして平らにならされた心を眺めて、ほっとしながら、どこか物足りなく思っている。我ながら、面倒くさい人間である。
ご自愛ってなんやねん、と毒づきながら、今夜も私は湯船に入浴剤を入れた。
柚子の匂いが立ちのぼる。
腹立たしいほど、肩の力が抜けていく。湯の中で膝を抱えながら、私は、またどうにかなってしまう自分に、少しだけ腹を立てている。
(了)
初出 note 二〇二六年十月二十一日