作品目録へ

四人掛け 短篇 水 1-9

四人掛け

「すみません」と声をかけると、通路側の一人が「あ、どうぞどうぞ」と足をずらした。感じのいい声だった。それが、よけいにまずかった。

発車して五分もしないうちに、彼らの声は車両じゅうに広がりはじめた。誰かの元カノの話。サークルの先輩の物まね。似ているのかどうか、僕には判断がつかない。けれど三人は、膝を叩き、背もたれに頭をぶつけるようにして笑った。笑うたびに、向かいの男のスニーカーの先が、僕のくるぶしに当たった。

別に、痛くはない。

窓に額を寄せる。ガラスは冷たく、額の熱がそこから少しずつ抜けていった。暗い窓に映っているのは、ネクタイを緩めた三十四歳の男と、その隣で手を叩く若い肩。

今夜は、課長の送別会だった。僕は二次会まで残り、課長の昔話に、笑うべきところでちゃんと笑った。誰よりも早くおしぼりを畳み、誰よりも静かにグラスを空けた。それで、何の不足もなかった。

うるさい。

そう思っている自分の顔が、窓に映っている。眉間に、浅い皺が寄っている。

イヤホンを出せばいい。鞄の内ポケットに入っている。けれど、出せば、聞こえないふりをしていることが彼らに伝わってしまう気がした。伝わったところで、彼らは気にも留めないだろう。それもわかっている。わかっているのに、ポケットに伸ばした指は、ファスナーの手前で止まった。

席を移ればいい。隣の車両は、もう少し空いているかもしれない。けれど立ち上がれば、それもまた、何かの表明になってしまう。

結局、僕は、どちらもしなかった。

心のどこかで、「ちょっと静かにしてもらえますか」と言う自分を、何度も想像していた。言い方を変え、声の低さを変え、そのたびに彼らが気まずそうに黙るところまで思い描いて、ほんの少しだけ溜飲を下げていた。どうせ、一度も口には出さないくせに。

僕は、こういう人間である。

電車の中の笑い声ひとつに、自分が値踏みされているような気になる人間である。誰も、僕のことなど見ていないのに。十年前の自分を思い出そうとしてみたが、ああやって笑った夜は、一度も見つからなかった。

うるさいのは、彼らで。

煩わしいのは、僕のほうだ。

三つ目の駅で、通路側の男が立ち上がった。リュックを肩にかけながら、彼は僕のほうを向いて、小さく頭を下げた。

「すみません、うるさくて」

いえ、と言ったつもりだった。声になっていたかどうかは、わからない。彼は残りの二人に手を振って、ホームの明かりの中へ降りていった。

ドアが閉まる。二人になった彼らは、さっきより少しだけ声を落として、まだ笑っている。向かいの席が、ひとつ空いている。くるぶしに、もう何も当たらない。

僕は、まだイヤホンを出せずにいる。

(了)

初出 note 二〇二六年十月十三日