指先
爪の根元に、三ミリほどの隙間ができている。
淡いピンクに塗られた部分と、何も塗られていない部分。その境目は、三週間前には存在しなかった。
キーボードを叩くたび、白く透けた細い帯が視界の端に入ってきて、そのたびに私は、時間が爪の形をして押し出されてくるのを見せられる。
ネイルを始めたのは、今年の四月。
きっかけと呼べるほどのものは、別にない。強いて言えば、手を見てしまったのだ。
不動産管理会社の事務も五年目になると、仕事の大半は手が覚えている。契約書の綴じ方も、印鑑を押す角度も、朱肉の減り具合で次の発注時期がわかることも。
あの日、私は、更新書類に会社の角印を押していた。押して、持ち上げて、次の書類を引き寄せる。その途中で、蛍光灯の下に置かれた自分の右手が、ふいに目に入った。
ささくれが三つあった。人差し指の横の皮が、白く乾いて剥けかけていた。爪は短く切りそろえられているだけで、何の色もしていなかった。
誰の手だろう、と思った。
もちろん私の手である。
二十七年使ってきた、私の手である。
けれど、そのとき机の上にあったのは書類を処理するための道具のような何かで、そこに私がいる感じがまるでしなかった。新人の頃には、もう少しましだった気がする。ましだった、というのが何を指すのかは、自分でもよくわからない。
その週の土曜日、駅前のビルの三階にあるサロンに、予約もせずに入った。
*
今日で、七回目になる。
「今回もオフからしていきますね」
担当さんが、私の手を取って、白いタオルの上に置く。マシンが低く唸って、三週間分の薄ピンクが削られていく。
オフしたあとの爪を見るのが、私は、少し苦手である。
薄くて、白っぽくて、表面にうっすらと縦の筋が走っている。色を剥がされた爪は、四月のあの日の手に一瞬で戻ってしまう。私は、いつもそこから目を逸らす。
「オイル、ちゃんと塗ってくれてるんですね。ささくれ、全然なくなりましたね」
塗っている。寝る前に、十本ぶん。
最初は言われたから塗っていただけだったのに、いつの間にか、塗らずに眠る夜のほうが少なくなった。歯ブラシと同じ棚に、あの小さな瓶が置かれている。
「今月は何色にしますか。秋なので、こういうのも可愛いですよ」
差し出されたカラーチャートの上で、戸塚さんの指が止まる。深い赤。ほとんど黒に近い、葡萄を煮詰めたような色。ボルドー、と小さく書いてある。
「あー……会社が、ちょっと」
口が勝手にそう言った。
嘘ではない。けれど本当でもない。うちの会社に、ネイルの色についての規定はない。営業の三上さんは毎月ラメを乗せているし、課長はたぶん、私の爪に色が塗ってあることにすら気づいていない。
六ヶ月、私は、ピンクとベージュを行ったり来たりしてきた。
誰にも何も言われない色。
言われないことを、選び続けてきた色。
「……それで、お願いします」
戸塚さんは少しだけ目を丸くして、それから「絶対似合います」と笑った。似合うかどうかは、もはやどうだってよかった。
*
ボルドーは、塗った直後よりも、ライトで固めたあとのほうが深かった。
一本ずつ、硬化用のライトに指を入れる。紫がかった光の中で、爪の表面が、とろりと光を閉じこめていく。
十本すべてが終わったとき、タオルの上の手は、知らない人の手のように見えた。
四月とは、違う意味で。
帰りの電車で、吊り革を握った自分の手を、何度も見た。向かいの席の人に見られている気がして慌てて手を下ろし、また上げた。自意識過剰である。誰も、他人の爪など見ていない。わかっている。わかっていて、私は、何度も見た。
*
月曜日、誰も、何も言わなかった。
三上さんだけが、給湯室ですれ違いざまに「お、秋ですね」と言った。それだけだった。課長は、やはり気づかなかった。
別に、誰かに見せたかったわけではなかった。
見せたくなかったわけでも、たぶん、なかった。
午後、私は、また更新書類に角印を押していた。押して、持ち上げて、次の書類を引き寄せる。その途中で、蛍光灯の下の右手が目に入る。
深い赤が、十個。朱肉の赤よりも、ずっと暗い色をしている。人差し指の横に、ささくれは、ひとつもない。
これが、私の手だ。
キーボードに指を戻す。打ち込むたびに、小さな赤が、画面の白の手前を行き来する。三週間たてば、根元にはまた隙間ができる。そのとき何色を選ぶのか、私は、まだ知らない。
爪は、今日も、目には見えない速さで伸びている。
(了)
初出 note 二〇二六年十月十四日