でも、
「で、最近どうなの」
その質問が来るのは、だいたい二杯目に口をつける頃だと決まっている。
決まっているので、私は、もう答えを用意している。
「どうもないよ。仕事が忙しい」
「またそれ」
美緒は笑って、ストローの先でアイスラテの氷をつついた。
十月の半ばに、まだアイスを頼む人である。高校の頃から、美緒は季節に少しだけ遅れて生きている。
駅前のカフェは、週末の午後にしては空いていた。窓際の席で、向かいに座った美緒の髪が、西日を受けて茶色く透けている。
彼氏は、と聞かれれば、いない、と答える。
作らないの、と聞かれれば、別に、と答える。
ほしくないの、と聞かれれば、そういうわけじゃないけど、と言って、そこで会話を終わらせる。
この三段の問答を、私は、ここ数年でたぶん百回はやっている。
親戚の集まりで、職場の飲み会で、美容院で。もはやどうだってよかった。どう答えても相手は納得しないし、納得させる必要も感じていない。
「透子はさ、理想が高いんだよ」
これも、百回は言われている。
「高くないよ。普通に、話が通じる人がいい」
「それが高いんだって」
美緒はそう言ってから、急に黙った。氷をつつく手が止まる。
ああ、今日は、こっちが本題か。
*
相手は、職場の三つ上の先輩だという。
返信が遅い。約束の時間に十分は遅れてくる。休日の予定を聞いても「まだわかんない」と言う。この前は、美緒の誕生日を一日間違えた。
美緒は、ひとつずつ、指を折って話した。折るたびに、少しずつ声が小さくなった。
聞きながら、私の頭の中では、もう表ができあがっていた。
左に、美緒が挙げた事実。右に、そこから推測できる相手の優先順位。返信の遅さと遅刻と予定の曖昧さは、同じ一つの傾向から出ている。
誕生日の件は、決定打ではないが補強材料にはなる。
結論は、わりと早い段階で出ていた。
「それはさ、美緒の時間を軽く見てるんじゃないの」
言ってから、少しだけ言い方を考えればよかったと思った。けど、内容を変えるつもりはなかった。
私は、正しいことを、正しいと言われる順番で言う人間である。そうやって生きてきて、そうやって仕事も回してきた。
相談された以上、いちばん役に立つのは慰めではなく見立てだと信じているし、美緒が私を呼ぶときはそれを求めていると思ってる。
それが美緒の欲しかったものではなかったとしても、それ以外の伝え方を私は知らない。
美緒は、怒らなかった。
「うん。わかってる」
ストローをくわえて、少し吸って、離した。
「わかってるんだけどさ。でも、好きなんだよね」
*
でも、ね。
私は、頭の中で繰り返した。
でも。
その二文字の後ろに、美緒は何も並べなかった。
理由も、根拠も、反論も。表の右側にも左側にも書けない何かを、彼女はただ、テーブルの上にぽんと置いた。
「この前ね、私がすっごいつまんない冗談言ったの。自分でも言った瞬間にうわってなるやつ。そしたらその人、ちょっと間をあけてから、ものすごい笑ったの。顔、真っ赤にして」
美緒は、そのときの顔を思い出したように、自分も少し笑った。
「たぶんそれだけなの。それだけで、なんか、全部いいかって思っちゃった」
私は、何も言えなかった。
言うべきことはあった。それは一時的な好感で、長期的な相性の指標にはならない。冗談に笑う人間なら他にもいる。返信の遅さは、半年後、一年後、確実に効いてくる。
全部、言えた。言わなかったのは、言っても無駄だとわかったからではない。
羨ましい、と思ってしまったからだった。
*
二十三のとき、一度だけ、好きになりかけた人がいた。
仕事の勉強会で知り合った人で、話がよく通じた。
私が一言で済ませた説明を、その人は一言で受け取った。説明を足さなくていい相手というのは、私にとってそれだけで、ほとんど奇跡に近い。
二回、食事をした。三回目に誘われたとき、私は、断った。
理由は、ちゃんとあった。住んでいる場所が遠い。転勤のある会社だった。結婚観の話をしたとき、少し曖昧な答えが返ってきた。将来の見通しが立たない相手と、時間をかけて関係をつくるのは、合理的ではないと判断した。
その判断を、私は、今でも間違っていたとは思わない。
けど。
本当は、わからなかったのだ。
自分が、あの人の前でどうなるのかが。
話が通じるのが嬉しくて、帰りの電車で一人、口の端がゆるんだこと。次に会う日を手帳に書く前に、一度、指でなぞったこと。
そういう自分を、私は、予測できなかった。予測できないものを、私は、信用しない。だから条件のほうを並べて、並べた条件で、自分を説き伏せた。
断ったのではない。
確かめるのが、怖かっただけだった。
*
「ごめん、透子にこんな話」
美緒が言った。
「ううん」
私は、首を振った。それから、少しだけ迷って、言った。
「さっきの、撤回はしないけど」
「うん」
「でも、美緒がそう思うなら、それは、たぶん本当なんだと思う」
美緒は目を丸くして、それから、ふっと笑った。
「透子が、でも、って言った」
「言うよ、それくらい」
「言わないよ。高校のときから、ずっと、だから、しか言わない」
そうかもしれない。
私は、いつも結論の前に理由を並べる。理由が揃ってからでないと、結論に手を伸ばさない。恋も、たぶん、そうやって待っていた。条件を全部満たして、正しい顔をして、向こうからやってくるのを。
誰かを好きになるのに、証明は要らない。要らないのに、私は、ずっと証明を待ち侘びていた。
恋をしなかったのではない。
恋に、条件を満たしてから来てほしかっただけだった。
*
店を出ると、日はもう、ほとんど落ちていた。
「また相談乗ってね」
「次は、もうちょっと優しく言う」
「えー、いいよ。透子のそういうとこ、私けっこう好きだし」
美緒は手を振って、改札のほうへ歩いていった。
その背中を見送ってから、私は、スマホを取り出した。
連絡先のずいぶん下のほうに、まだ、その人の名前が残っていた。
(了)
初出 note 二〇二六年十月十二日