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ご自愛ってなんやねん 随想 水 1-15

ご自愛ってなんやねん

最近、ご自愛という言葉をやたらと見かける。

頑張った自分にご自愛スイーツ

週末はご自愛デー

ご自愛のためのバスソルト

コンビニの棚にも、SNSの広告にも、ご自愛はいつのまにか当たり前の顔をして並んでいる。

なんやねん、ご自愛って。

もとは手紙の結びの言葉である。くれぐれもご自愛ください、と、誰かが誰かの身体を案じて書き添えるもの。

頭に「ご」がついているのは、相手を敬うためのはずである。

それを自分から自分に向けて使うのは、鏡の前で自分に「お疲れさまでございます」と頭を下げるような、妙なねじれがある。

言ってくれる人がいないから、自分で言うしかなくなったのかもしれない。

*

とはいえ、私も、そのご自愛とやらをする。

する、どころか、わりと得意である。

嫌なことがあった日は、湯船に入浴剤を入れる。

好きなラジオをかける。少し高いハンドクリームを、指の股まで丁寧に塗り込む。帰り道のコンビニで、いつもは素通りする瓶入りのプリンを買う。そうやって手順をひとつずつ踏めば、たいていの夜はどうにかなる。

そう、どうにかなってしまうのだ。

昼間あれほど胸の奥でざらついていたものが、四百円のプリンと柚子の湯で、するりとなだらかになってしまう。

上司のひと言も、うまく運ばなかった仕事も、誰かの無神経な冗談も、ひと晩眠れば輪郭がぼやけている。

助かる、とは思う。思うのと同じくらい、拍子抜けもしている。

私の憂鬱は、その程度のものだったのか。こんなに安く片がつくものに、私は昼間、あんなにも振り回されていたのか。

もっと、どうにもならないものであってほしかった。

入浴剤ごときでは溶けない、プリンひとつでは埋まらない、誰かがそばに来て背中をさすってくれない限りどうにもならない、そういう重さであってほしかった。

そうであれば、私は堂々と誰かに寄りかかれたのかもしれない。助けて、と言えたのかもしれない。

けど、私の重さはいつも、自分ひとりで抱えきれる大きさにおさまってしまう。おさまってしまうから、誰の手も借りないまま、また朝が来る。

もちろん、これがひどく贅沢で、矛盾した願いであることは分かっている。

本当にどうにもならない夜を過ごしている人からすれば、ふざけるなという話だろう。私だって、いざそうなったら、泣きながら今夜のプリンを懐かしむに決まっている。

どうにかなる、というのは、本来ありがたいことでしかない。

ありがたいのに、もどかしい。

自分の機嫌を自分でとれるのは、自分を守る技術である。同時に、誰かに機嫌をとってもらう機会を、自分の手で先回りして潰していく技術でもある。

私は手際がいいらしい。どうにもならなくなる前に、さっさと摘み取ってしまうのだ。そうして平らにならされた心を眺めて、ほっとしながら、どこか物足りなく思っている。我ながら、面倒くさい人間である。

ご自愛ってなんやねん、と毒づきながら、今夜も私は湯船に入浴剤を入れた。

柚子の匂いが立ちのぼる。

腹立たしいほど、肩の力が抜けていく。湯の中で膝を抱えながら、私は、またどうにかなってしまう自分に、少しだけ腹を立てている。

(了)

初出 note 二〇二六年十月二十一日