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四百十二日 短篇 水 1-14

四百十二日

夜の十一時四十八分に、私は歯ブラシを咥えたままスマートフォンを開く。画面の右上で、小さな炎の印が灰色にくすんでいる。今日の分を、まだやっていない。

洗面台の縁に肘をつき、泡が垂れないよう顎を少し上げて、親指で問題を解いていく。

「私は毎朝コーヒーを飲みます」

画面の下に散らばった単語のカードを、I、drink、coffee、every、morning、の順に叩く。

軽やかな正解の音が鳴る。ミントの味が舌の上で薄くなって、代わりに歯磨き粉の苦みが奥歯に残る。次の問題も、その次の問題も、私は、たぶん、半分くらいしか読まずに答えている。

最後の問題を終えると、炎が橙色に灯り、数字がひとつ増える。

四百十二日。

それが、今の私の連続記録である。

二十二のとき、駅前の本屋でラジオ講座のテキストを買ったことがある。四月号だった。表紙には「一日五分から」と書いてあって、五分なら、と思った。五分くらいなら、さすがの私にもできるはずだった。

できなかった。

三日目の夜に、テキストを開かなかった。開かなかったことに気づいたのは四日目の朝で、そのときにはもう、何かが終わった感じがした。五月号は買わなかった。テキストは、それからしばらく、ベッド脇の床の上で、読みかけの雑誌や郵便物の下に埋もれていた。引っ越しのときに見つけて、ほとんど白いままのページをぱらぱらとめくって、資源ごみの日に出した。

それからも、何度か同じことをした。単語帳を買った。オンライン英会話の無料体験に申し込んだ。洋画を字幕なしで観る、と手帳に書いた。どれも、ひと月と持たなかった。

やる気がなかったわけではなかった。ただ、続けられなかった。

いまの私は、続けている。毎晩、どれだけ眠くても、どれだけ酔っていても、日付が変わる前にアプリを開く。飲み会の帰りの電車で解いたこともあるし、熱を出して寝込んだ日に、布団の中で薄目を開けて解いたこともある。友人の結婚式の二次会では、トイレの個室にこもって五分を消化した。ドレスの裾を膝の上でたくし上げながら、「彼女は先生です」を英訳した。

それで英語ができるようになったかというと、別に、そういうわけでもない。

先月、会社の前で、大きなリュックを背負った観光客に道を聞かれた。早口で、聞き取れたのは「ステーション」という単語だけだった。私は駅の方角を指さして、イエス、イエス、と二回言った。相手は少し困った顔で笑って、サンキュー、と言って去っていった。合っていたのかどうかも、よくわからない。四百日近く毎晩英語をやっている人間の口から出たのが、イエスとサンキューだけだった。

これで勉強になっているのか、正直、私にもわからない。わかるのは、炎を消したくない、ということだけだ。

正確に言えば、私が守っているのは英語ではなく、数字のほうである。忙しい日は、いちばん簡単な復習問題だけを選んで済ませる。間違えそうな問題は、なんとなく後回しにする。アプリの中で貯めたポイントで、一日休んでも記録が途切れない「お守り」を、いつも二つ、きちんと買い置きしている。そういう抜け目のなさだけは、四百十二日のあいだに、ちゃんと身についた。

私は、数字に飼われている人間である。

そして、それを少し誇らしく思っている人間でもある。同僚が「私も始めたんだけど、二週間で止まっちゃった」と言ったとき、私は「わかる、続かないよね」と相槌を打ちながら、心のどこかで、自分の四百という数字を撫でていた。昔の私が、三日目の夜にテキストを開けなかった私が、いちばん嫌っていた種類の人間に、いつのまにか、私は、なっている。

再来週、三十になる。

二十二の私は、三十の私がもっとまともな大人になっていると思っていた。少なくとも、道を聞かれて、駅はあっちです、くらいは英語で言えるようになっていると思っていた。

三十になったら、英語くらい話せるようになっていると思っていた。

三十になっても、炎だけは、消さずにいる。

どちらが本当の私なのかは、もはやどうだってよかった。五分を、毎日、四百十二回。中身がどれだけ薄くても、それだけは、昔の私には一度もできなかったことだ。それも、たぶん本当だ。

口をゆすいで、歯ブラシをコップに戻す。洗面所の明かりを消す前に、もう一度だけ画面を見る。

暗がりの中で、小さな炎が、橙色に灯っている。

(了)

初出 note 二〇二六年十月十九日